【千代の富士を忘れない 前編】がんに屈した大横綱、日刊スポーツはどう報じたか
横綱千代の富士が亡くなってから10年になります。
2016年7月31日、元千代の富士の九重親方(本名・秋本貢)が膵臓(すいぞう)がんのために61歳で死去しました。
当時、日刊スポーツは新聞4ページにわたって報じました。
没後10年の節目に、あらためて千代の富士の功績を2回に分けて振り返ります。1回目は、亡くなった当時の新聞記事を紹介します(年齢、肩書などすべて、掲載当時のままとしています)。
早期発見も…
小さな大横綱が天国に旅立った。大相撲の元横綱千代の富士の九重親方(本名・秋元貢)が7月31日午後5時11分、膵臓(すいぞう)がんのため、東京・文京区内の病院で死去した。61歳だった。「ウルフ」の愛称で親しまれ、史上3位の31度の優勝など昭和から平成にかけて一時代を築き、89年には角界で初めて国民栄誉賞も受賞。大鵬、北の湖に続き道産子の大横綱がこの世を去った。
1984年9月、高々と足を上げ、力強い四股を踏む第58代横綱千代の富士
横綱千代の富士はケガとの闘いを乗り越え、史上初の通算1000勝、31度の優勝を達成した。度重なる肩の脱臼などにも弱音をはかなかった。わが道を貫き、角界をけん引してきた、そんな小さな大横綱も、病にはかなわなかった。
午後5時11分、家族全員にみとられて逝った。遺体を乗せた車に、久美子夫人と長男剛さんが同乗。都内の病院から、午後8時12分に東京・墨田区の九重部屋に到着した。キャスター付きベッドに乗せられ、佐ノ山親方(元大関千代大海)や幕内千代の国らが寄り添った。力士らは師匠の遺体に触れ「ありがとうございました」と涙を流しながら言葉をかけた。
還暦土俵入りを終え、白鵬(左)、日馬富士(右)と記念撮影する九重親方(元横綱千代の富士)(2015年5月31日撮影)
九重親方は昨年5月末に両国国技館で還暦土俵入りを披露。その後、膵臓がんが見つかり、手術を受けた。「早期発見で良かった」と喜び、以後は1滴もアルコールを口にしなかった。しかし、最近になってがんが胃や肺などに転移し、鹿児島県などで治療を続けていた。7月の名古屋場所は4日目の13日を最後に休場し、都内で入院していた。
1981年1月、14勝1敗で初優勝を決めた関脇千代の富士は、支度部屋で念願の賜杯を手にして後援者から祝福を受ける
70年秋場所初土俵。81年名古屋場所後に第58代横綱に昇進した。小兵ながら左前まわしを引いての寄り、豪快な上手投げで土俵に君臨し「小さな大横綱」と称された。角界のプリンスと人気を博した大関貴ノ花に代わるように看板力士となり、筋肉質の体で北の湖らと一時代を築いた。身長183センチ、125キロ前後の細身ながら、スピード、引き締まった体、眼光の鋭さなどで老若男女を魅了した。
1991年5月、横綱千代の富士は涙を流しながら引退を表明する
91年夏場所。初日に貴花田(のち横綱貴乃花)に敗れ、3日目に貴闘力に屈し現役を引退。「体力の限界…」と涙する姿は感動を呼んだ。92年4月から九重部屋を継承。大関千代大海らを育てた。
協会内では日本相撲協会理事として事業部長や審判部長などを務めた。しかし、14年の理事候補選に落選。今年1月の理事選も出馬の意向を持っていたが、票がまとまらず断念した。夢に描いていた第2の千代の富士育成に心血を注ぐ-。そう心機一転した直後に待っていた人生の最期。波瀾(はらん)万丈の人生に、幕を下ろした。
日本相撲協会は今日1日、両国国技館で臨時の理事会を開く。協会葬やファンに向けたお別れの会などの開催が検討される。
◆膵臓(すいぞう)がん膵臓にできる悪性腫瘍。早期の場合はほとんどが症状に表れず、早期発見が難しい病気。多くが進行している状態で発見されて、手術不可能な状態で見つかることも多い。手術したとしても、3年以内に再発する可能性が高く、5年生存率(5年間がんが再発しなければ完治したと言われている)は10~20%とされている。
千代の富士アラカルト
◆初土俵1970年秋場所に本名の秋元で初土俵踏み、一番出世だった。今は禁止の中学生力士で、177センチ、71キロだった。同期は37人で、前頭蔵玉錦、王湖、十両牛若丸、再入門で関脇になった玉ノ富士もいた。
◆高校中退千代の山の九重親方が実家に来て誘われた。1度は断ったが、翌日に「飛行機で東京に連れていってやる。高校は行かせてやる」に気楽に入門。明大中野高に進学したが、71年名古屋で初の負け越し。「今のままでは中途半端。相撲一本で行く」と中退した。
◆助言同じ軽量級の大関貴ノ花が憧れで目標だった。十両時代に巡業で「早く上がってこい。たばこをやめれば太る」とアドバイスされて禁煙。あめをなめて我慢すると太りだした。ちなみに貴ノ花は最後まで禁煙しなかった。
◆家族愛1983年に結婚した久美子夫人との間には、優、剛、梢、愛と1男3女が生まれた。子供と賜杯を抱いて記念撮影を目標にした。1988年春場所14日目に左肩脱臼も千秋楽休場で優勝し、生後1カ月の末娘を抱いて撮影も翌1989年6月に急死。名古屋は数珠をかけ場所入りし、28度目の優勝で供養。
◆昭和最後1988年夏場所7日目から九州場所14日目まで53連勝を飾った。当時2位は大鵬の45連勝で、これを破った日に親方と会うと「もっと伸ばせ」とハッパを掛けられた。千秋楽に連勝を大乃国に止められたが「自信過剰になっていた」と後日回想。結果的にこれが昭和最後の一番となった。
◆記録男優勝決定戦は6戦全勝と負け知らず。朝潮と双羽黒に各2勝、北の湖と唯一の同部屋横綱決戦となった北勝海に1勝。1981年初場所に、北の湖を優勝決定戦で破って初優勝した。この時の視聴率52・2%は史上1位。2位は貴ノ花が北の湖に勝って初優勝の50・6%。
記者のケンカも見抜いた
記者が悼む、千代の富士
相撲担当になったのは1983年だが、千代の富士はすでに横綱で7回優勝していた。新弟子記者には近寄りがたい存在だった。ただし、あくまで個人的には親近感を持っていた。肩の脱臼癖という同じ古傷を持っていたから。記者も10回以上脱臼経験があり、それだけにすごさを感じた。
投げに固執していたが、前ミツとっての速攻に変えたのが転機だった。だいぶ話せるようになってから、どう脱臼を克服したかをあらためて聞いた。「一にも二にも腕立て伏せ。あれに尽きる」と即答だった。「いまだって怖い感じはある」と吐露したが、続けて「あとは根性」と言って、ニヤリとしたのを思い出す。
筋骨隆々とした肉体、速攻に力強い相撲っぷり、稽古は量が減ったが中身は濃かった。ウルフと呼ばれた鋭い眼光での観察眼には、何度も驚かされた。ケガで休場中でも出稽古し、他の力士を見て研究する見取り稽古だった。
当時の稽古場ではたばこも自由に吸えた。記者は居眠りをしないようにとも思って、よくたばこを吸っていた。稽古が終わると「吸いすぎだよ。5本吸ったな。稽古をちゃんと見てんのか」と怒られた。
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1996年入社。特別編集委員室所属。これまでオリンピック、サッカー、大相撲などの取材を担当してきました。X(旧ツイッター)のアカウント@ichiro_SUMOで大相撲情報を発信中。著書に「稽古場物語」「関取になれなかった男たち」(いずれもベースボール・マガジン社)があります。